現在のアサビがある杉並区梅里一丁目は、幹線道路である青梅街道とその下を通る丸ノ内線の新高円寺駅から南に位置し、寺院や緑に囲まれた静かな住宅街にあります。
1952年に、自宅を改装して手狭だった阿佐ヶ谷洋画研究所は、阿佐ヶ谷北から現在の場所へ移転します。当時の住居表示は杉並区高円寺三丁目でした。1954年には洋画研究所から阿佐ヶ谷美術学園となり学校法人として認可されます。1957年には校舎を鉄筋コンクリートで建設しました。


左:現在のアサビの中庭にある汲み上げポンプは1952年当時からのもの
右:木造の住宅街に建った鉄筋コンクリートの校舎


当時の青梅街道には路面電車の都電杉並線が走っていました。阿佐ヶ谷美術学園から近い駅は「馬橋一丁目」でした。1961年には馬橋一丁目駅の近くに地下鉄丸ノ内線の新高円寺駅が開業します。1962年に丸ノ内線が荻窪までの全通し、新高円寺駅の北側の3つの商店会が統一して「高円寺ルック商店街」が生まれます。青梅街道の慢性的渋滞と丸ノ内線の全通により、1963年には都電杉並線は廃止。そして、1964年の東京オリンピックを契機に、街は大きく変化していきます。高円寺三丁目の住居表示が現在の「杉並区梅里」となったのは1968年。「青梅街道沿いの里」に由来して名付けられたと言われています。


左:都電杉並線の最終日に別れを告げる装飾電車   資料提供:杉並区郷土博物館
右:昭和25(1950)年 東京都交通局電車案内図の都電杉並線路線図   出典元:裏辺研究所


1965年の阿佐ヶ谷美術学園はデザイン専門部/油絵科/デッサン科/建築デザイン科がありました。そして、1977年に専門学校の認可を得た「阿佐ヶ谷美術専門学校」が設立されました。その後、学生がルック商店街のロゴや、商店街入口のアーチ(2020年に撤去)をデザインするなど、「阿佐ヶ谷」の名前がついた学校は、新高円寺、そして梅里に根ざしていったのです。


左:学生がデザインしたルック商店街のロゴ
右:学生がデザインして設置された入口のアーチ(画像提供:高円寺ルック商店街振興会)